マヤ文明について

メキシコ南東部のユカタン半島、グァテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドルの中米五ヶ国にまたがるマヤは、密林と亜熱帯の地域に属しています。「紀元前約2,000年に発祥して、6世紀に最盛期をむかえる。その後、8世紀頃からは徐々に衰退して、滅亡あるいは忽然と消滅した文明」と考古学では伝えています。しかし実際のところは、文明の起源はもちろん、その文化形態もあいまいなまま、なお多くの議論が続いています。つまり、書籍やテレビ、インターネットなどで取り上げられる「一般的なマヤ」の情報は、西洋の研究や解釈を通して伝えられているものです。その一方で、秘密裏に口伝で護り伝えられてきた先住民による「伝統的なマヤ」の教えや情報が今のこの時代にまで語り継がれています。
16世紀、マヤ地域に西洋が侵攻し、先住民達の暮らしは一変しました。マヤには「あらゆるものにはスピリットがある」という思想が根付いていたので、風貌の異なるスペイン人を初めて見た時も「同じスピリットを持つ者達」として受け容れました。しかし、異端審問に熱狂していた当時のスペイン人には、裸同然のマヤ人は「無知な野蛮人」としか見えませんでした。そんな彼等が美しくて洗練されたピラミッド神殿を造り、独自の社会システムで生活しているとは考えにも及びません。異国の民、文化、思想を理解できなかった血気盛んなスペイン人は、力ずくで土地や部族の分断、言語や思想の弾圧、破壊、策略を繰り返して、マヤの社会や文化を徹底的に壊滅へと落とし入れてゆきました。
中でもキリスト教司祭ディエゴ・デ・ランダ(1524~1579)は、マヤに決定的な影響を与えた人物として知られています。司祭は布教政策のもと、マヤの儀式や宗教、教育、芸術、言語の一切を禁じ、ピラミッド神殿や彫像をことごとく破壊しました。崩した石材はその場で教会建造に用いられました。また、マヤの思想や歴史を絵文字で記したコデックス(絵文書)を焼却し、結果として貴重な文化遺産の大部分が失われました。マヤの人々に対する取り締まりは過酷を極めたので、行き過ぎた処罰が問題視され、本国に訴えられる事態にも至りました。
その一方で、司祭はマヤ文化に強い関心を抱き、言語や風習の記録を残すと言う矛盾した一面を持っていました。マヤ語を学び、アルファベットとの対応を試みた記録は残されたものの、それは征服者の視点を通した偏った資料であり、後世はその断片に頼るしかない状況となりました。そこに記されたマヤの情報は、キリスト教的世界観の枠組みの中で再解釈されたものであり、しかも当時すでに多くの神官やシャーマンという精神的指導者が失われていたため、伝統の教えの全体像に直接触れることは極めて困難でした。こうして、マヤ・カレンダーをはじめとする多くの事柄は限定的かつ断片的に理解され、独自の解釈が広がっていきました。現在では、誤読や誤訳、解釈上の問題が少なくないことも明らかになっています。この出来事は、マヤ文明研究における大きな断絶をもたらしたと考えられています。
翻弄された歴史の末に、暑い亜熱帯のマヤの地はスペイン人に放置されます。西洋文明との接点は中断され、人々に忘れ去られて数百年の時が流れます。20世紀になると、西洋人の考古学者エリック・トンプソン博士が本格的なマヤの研究を始めます。しかし、密林でひっそりと暮らしてきたマヤ人達は、語り継がれた過去の歴史から真実を話そうとはしなかったため、博士は司祭が書いた「ユカタン事物記」だけを頼りにするしかありませんでした。その結果、司祭の資料を参考に、博士もまた自身の西洋的な思考で研究を進めてゆきました。そして現代もなお、マヤ文明に関する本や資料に目を通せば、そのほとんどがマヤ研究の権威である博士の見解と同様のものが記されており、学校の教科書を含めた全ての資料が、西洋思考である博士の理論を元に説明されているのです。その大元となるのが、司祭の個人的な解釈による情報であり、「忽然と消えた幻の文明」「悪魔崇拝といけにえの文明」と世に伝わって人々を混乱させている「偽りのマヤ」の正体なのです。
こうして真のマヤを理解することができなかった西洋人によって、「伝統的なマヤ」の情報は闇に葬られ、長い年月の間、神秘のベールに包まれていました。しかし現代になって、先住民が語る伝統の情報が少しずつ開示されてきました。時代の片隅で大切に護られてきた教えは、「再び訪れる『光の時代』にマヤの叡智が必要とされる」という予言に基づいて、この現代に蘇ってきたのです。歴史的背景を知ることによって、異文化を理解できなかった西洋的な思考によってゆがめられた真実があるということを感じていただけると思います。
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